2009年5月1日
日本だから、できる。あたらしいオリンピック!
「日本だから、できる。あたらしいオリンピック!」──これが東京オリンピック招致活動のスローガンです。
そして同時に、私自身が感じている想いでもあります。私が東京オリンピック・パラリンピック招致委員会の事務総長に就任したのは2006年のこと。当初予定されていた水野正人氏が、IOC(国際オリンピック委員会)と自社(ミズノ株式会社)のサプライヤー契約の関係でこのポストに就くことができなくなり、私に声がかけられました。そんな事情もあり、周囲からは「どうせ開催は無理だから、やめておけ」という声も聞こえてきました。けれど、難しいと言われればチャレンジ精神に火がつきます。また、なにより今の若い人たちにオリンピックの感動を味わってもらいたい、そんな気持ちが大役を引き受ける後押しになりました。
筑波大学大学院人間総合科学研究科スポーツ医学専攻教授というのが、本来の私の職業で、現在は在職派遣というかたちで招致委員会の仕事をしています。そもそも筑波大学は、その前身の東京高等師範学校時代に、延べ23年間にわたって学長を務めた嘉納治五郎先生が日本人で初めてIOCの委員になった経緯があったり、IOCのジャック・ロゲ会長に名誉博士号を授与したりと、オリンピックにゆかりの深い大学。私の事務総長就任にも非常に理解を示し、社会貢献の一環として招致委員会に在職派遣してくれたことに深く感謝しています。
私を育てたスポーツ環境
私が本格的にスポーツマネジメントにかかわるようになったきっかけは、1986年のソウル・アジア大会、そして88年のソウル・オリンピックに、日本選手団のチームドクターとして参加したことでした。ご存じのとおり、ソウル・オリンピックはベン・ジョンソンのドーピング騒動があった大会で、私もチームドクターとして、ドーピングやスポーツのあり方について大いに考えさせられる経験になりました。
その後、日本のスポーツ振興に向けて、強化システムやデータベースの構築を提案し、日本ラグビーフットボール協会で強化推進本部長を務めるなど、「強化」という角度からもスポーツに携わってきました。ラグビー協会では、新しい強化のあり方を確立するために、若い世代のスカウト活動(平尾プロジェクト)を導入し、他競技との連携も活発に行いました。
また、日本オリンピック委員会(JOC)内で「球技系スポーツサポートプロジェクト」を立ち上げ、競技の枠を越えて、サッカーやバスケットボール、ハンドボール、卓球などの各協会と日本スポーツのあり方や強化について知恵を出し合いました。2001年には、JOCの「ゴールドプラン」(短・中・長期にわたる国際競技力向上戦略)の策定に、中心メンバーとして加わっています。
2001年には同時に、世界ドーピング防止機構(WADA)の国内組織となる日本アンチ・ドーピング機構(JADA)の設立にも参加し、02年のソルトレーク・オリンピックと04年のアテネ・オリンピックでは、WADAのインディペンデント・オブザーバーを務めました。
こうして振り返ると、場としては、ラグビー、JOC、アンチ・ドーピングという3つの柱で、また役割としては、スポーツドクター、強化、マネジメントという3つの立場から、深くスポーツとかかわってきたことによって、私のスポーツ観は育まれてきたように思います。

1973年、東京医科歯科大学医学部卒業。筑波大学講師、助教授を経て、99年より教授。ソウル五輪からアトランタ五輪まで3大会連続で日本選手団のチームドクターを務める。2001年、日本オリンピック委員会理事に就任。06年、在職派遣(筑波大学大学院教授)で東京オリンピック・パラリンピック招致委員会事務総長に就任。日本アンチ・ドーピング機構(JADA)理事長。医学博士
《 スポビズ・リーダーに聞く 》東京オリンピック・パラリンピック招致委員会事務総長
河野一郎
- (1)さまざまな角度からスポーツ支援に尽力
- (2)オリンピック招致をスポーツ変革の力に
- (3)東京オリンピックが世界経済に及ぼす効果
- (4)好奇心をもって取り組みチャンスをつかむ